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クリニックガイド2016

For Wonderful Life
人生をもっと素敵に

《特別インタビュー》
女優・タレント:原千晶さん

自分の身体の声と向き合うこと。それがきっと大切な人たちとの幸せにつながる

 子宮頸がんに続き、子宮体がんを患い、最終的に子宮の摘出をした原千晶さん。子宮を取ることへの葛藤や壮絶な抗がん剤治療を経る中で、自分を支えてくれる人々の存在や自分自身の生き方を見つめ直し、前向きに捉えられるようになったそう。

 婦人科系のがんを通して、得たことや感じたこと、そして、変化していった人生観をお伺いしました。

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身体のサインに無頓着な20代。がんの診断は青天の霹靂

─30歳で子宮頸がんを患うまでは、どのような生活でしたか?

 20歳で芸能界デビューした後、がむしゃらに働き続けていました。一方、寝る間を惜しんで遊ぶことも。「不摂生」な生活を送っていたと思います。また、早い時期から生理が重かったり、PMS(月経前症候群)があったりと、婦人科系の悩みを抱えていました。

 20代後半になると、下腹部の痛みや、赤茶けたおりものなど、気になることが増えていました。なんだろうと思いながらも、年齢的なものかなと片付けていました。

 30歳の時、仲の良い友達から、「ここ最近、ちょっと顔色悪いよ。病院行きなよ」と指摘されて……。それまで〝病院に行く〞という選択肢を全く考えてもいなくて、思わずハッとして勧められたクリニックにとりあえず重く考えずに行ってみたんです。 

 診てもらったら、子宮の入り口に小さなデキモノがあって、これが婦人科系の不調を引き起こしていると言われました。そのクリニックでは治療ができないので、大学病院を紹介していただきました。

 その病院でCTスキャンやMRIなどの詳細な検査をした結果、子宮の頸部に1センチ超の腫瘍が発覚。それを円錐切除(開腹をしない手術で、丸く切り抜く)しましょうと医師に言われ、あれよあれよという間の2005年2月に手術をしました。

 術後、腫瘍を病理検査したところ、子宮頸がんで、扁平上皮がんというタイプのがんだと判明しました。「がん」という二文字を想像していなかったので、頭が真っ白になるほどショックでした。それに加え、進行が速いので予防的な意味で子宮の摘出を勧められました。

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苦悩した「予防」での子宮摘出。手術入院前日に下した決断とは

─子宮摘出を勧められたときはどんなお気持ちでしたか?

 当時30歳で未婚。赤ちゃんが欲しいなと思っていた時期だったので、がんの宣告よりも、子宮を取るということがショックで、私はポロポロ泣いてしまいました。隣で母も診断を聞いたのですが、右手を強く握って、号泣する私を励ましてくれていました。

 両親や所属事務所の社長からは、「何よりも千晶の命が大事だから」と子宮摘出手術を勧めてくれました。その声に後押ししてもらい、手術同意書にサインをしたんです。

 その後手術まで1ヶ月あったので、改めて子宮を取ることに悩み始めました。一点どうしても腑に落ちなかったのが、子宮摘出が再発や転移を「予防」するための処置ということ。子宮を取らなければ命がないと言われれば、納得できたのでしょうけど……。結局、手術のための入院前日に、腑に落ちない気持ちが溢れて爆発してしまい、手術のキャンセルをしました。先生は驚いていましたが、「まずお話しましょう」と言ってくださり、翌日外来で話したときには「原さんが一ヶ月間悩みに悩んで出した結論なので、尊重します。ただ、月に1回は必ず経過観察しましょうね」と受け入れてくれました。

良好な経過に気を抜き、通院を放棄。5年後に走った腹部の激痛

─その後は、どのように過ごされていたのですか?

 2年間は、経過観察のための月1回の通院をかかしませんでした。毎回、検査結果が良好で体調もよく、ドラマの仕事が重なったことも引き金になり、1回通院をやめてしまったんです。1回やめたらそのままなし崩し的に行かなくなりました。頭の片隅では気になっていましたが、何かあったら病院に行けばいいと思っていました。

 2009年の年末に、鎮痛剤を飲んでも生理痛が収まらず、のたうち回るような痛みを発症。これはおかしいと思い、すぐに最初にお世話になったクリニックに行きました。

 診察では、「検査してみないとわからないが、とにかくすぐに大きな病院に行きなさい」と言われました。調べた結果、最初のがんより症状が重い『腺がん』になっていることがわかりました。

 そして気まずさはあったのですが、子宮頸がんのときにお世話になった大学病院に連絡をとりました。先生は「すぐに来なさい」と言ってくださって。診察の結果、「大変な状況になっているから、すぐに手術しましょう」と告げられました。

 2010年1月に子宮摘出手術をしました。手術前にCTスキャンなどのいろいろな検査をしたら、子宮の体部にがんがあることがわかり、リンパへの転移も判明。ステージⅢ -Cの「子宮体がん」と告知されました。

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病気は自分だけの問題じゃない。大切な人たちを巻き込んでいく

─手術の前後では、ご家族はどのような反応でしたか?

 自分の両親、婚約者の彼氏、彼の両親たちのことを思ったときに、子どもが産めなくなることに、申し訳なさを感じました。同時に絶対支えていくと言ってくれた家族の気持ちのありがたさも。病気は自分だけでなく周囲の大切な人たちを巻き込んでいくことに気付き、一番身に応えました。「なぜ検査通院を続けなかったのか……」2度目のがんになるまで、そこに気が付かなかった自分の浅はかさを心から後悔しました。

 北海道にいる母は最初のがんの後もずっと心配して、電話の度に「病院に行ったの?」と確認してきました。病院に行かずに欺いてきた状態が、本当に心苦しかったです。

 そんな状況だったので、子宮体がんがわかっても、一週間以上、母には言えなかったんです。きっと母から「何やってるの!だから病院に行けって言ったでしょ」と怒られ、泣かれると覚悟して電話をしました。

 がんが見つかったと打ち明けると、母は絶句した後「分かった。今すぐ行くから」と、一言も責めずに東京に飛んできてくれました。お母さんの懐の深さに、「本当にごめん!」と大泣きしました。

壮絶な抗がん剤治療。リタイアしかけた時に救ってくれた彼の言葉

─子宮摘出後の治療はどうでしたか。

 リンパに転移があったので、抗がん剤の治療であるTC療法をすることになりました。脱毛や強い痛みなどの副作用がある療法でしたが、医師を信頼して頑張ろうと思いました。

 抗がん剤の投与は3週間に1回、全6クールで約4カ月間。生きてきた中で最もつらい体験でした。自分が自分ではないような感覚。恐ろしいぐらい体調が悪くなります。そして、回数を重ねる事にその副作用が強くなります。

 3クール目の抗がん剤治療をしたとき、あまりの辛さに、今の主人に、もうやめたいと泣きつきました。彼はうんうんと聞いてくれた後「先生に言ってみようか。でもさ、今までがんばってきた抗がん治療はどうなるの。6回やってはじめて効果がある治療をやろうとしているんだよね。頑張ってみない?」と優しい口調で諭されました。その言葉に励まされ、乗り切ることができました。

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彼との入籍とがんの公表。多くの「仲間」の存在が支えに

─その後、がんの公表に至った経緯を教えてください

 治療を終えてから、彼と入籍をしたんです。今後も経過観察は続くので隠しきれないと思い、所属事務所と相談してがんという悲しいことと入籍というおめでたいことの両方を同時に報告できるのがいいんじゃないかと公表することにしました。

 公表後、ブログのコメントが一気に増えました。多かったのが、女性特有のがんを患っている方からの声。それをみて私自身がホッとしました。それまで周囲に同じ病気の人がいなかったので、なんで私だけという気持ちが強かったんです。世の中を見渡せば、同じ経験者がいることがわかって、喜ばしいことではないのかもしれませんが、ホッとしました。

「仲間」を求めて会を発足。同じ境遇だからこそ分かち合える

─婦人科系のがん患者の会を立ち上げたそうですね。

 ブログのコメント欄に個別に返信していたのですが、そのうち、顔をみて話がしたいと思うようになりました。そこから『よつばの会』を立ち上げることにしました。誰かを救いたいという気持ちからではなく、私自身が同じ境遇の人の声で救われていたこともあり、仲間が欲しくて立ち上げたんです。

 よつばの会では毎回3時間くらいお互いの話をします。最初は東京中心。その後全国各地で開催を増やしていきました。現在5周年で、延べ500人の方に参加していただいています。

 顔を合わせてお話を聞くのは自分自身勉強になることが多いですし、参加された方が溜めてきた想いを吐き出してもらうことで、す〜っとラクになっていく姿をみるのが嬉しいです。同じ境遇から気持ちを分かちあえることが多く、その後も連絡先を交換して輪が広がっています。共感しあうことでお互いの力を生んで、生きる力になっていると思います。

どんな問題も自分自身の問題。自分らしく前向きにとらえて生きていく

─2 つの病気で考え方がどのように変わりましたか?

 「なんでがんになっちゃたんだろう」と考えたときに、自分からストレスを引き寄せていたんだと思います。若い頃は何かあるとすぐに責任転嫁をしていました。環境のせいにしたり、人のせいにしたりで、自分事として捉えられず逃げていたのです。大きな問題でも小さな問題でも、自分事として前向きにとらえて解決する力を持とうと、がんを経験して学びました。

 体調面でいうと、すごく身体を冷やしていたと思います。だから今は足湯に通ったり、赤外線のドーム型サウナを購入して身体の芯から温めたりするようにしています。また、食べ過ぎ飲み過ぎに気を付け、大切な人たちとの食事会でストレス発散した後は、約一週間は粗食にする、といったようにメリハリをつけるようにしています。

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─最後に、読者の方へ原さんからメッセージをいただけますか。

 何か不調がある時には、身体は常に信号を発しています。その信号を無視し続けた結果、私は2回のがんを患い、大切な人たちに多くの心配をかけてしまいました。

 タイムマシンで20代の自分に声を掛けられるなら「すぐに病院に行きなさい!」って伝えたいです。

 女性はやはり我慢強い人が多いです。子どもや夫のことを優先し、自分を後回しにしがち。でもパワーがあっても、限界は必ずあります。その限界がくる前に、自分の身体の声を聞いてあげて欲しいです。そして、休めるときに休むことが大事。余裕は自然にできるものではなく、自分で意図して作らないと生まれないと思います。ご自身の心身を何よりも優先して、周りを明るく照らすことが、きっと周囲の幸せに繋がると思います。

 <Profile>
原千晶(はら・ちあき)

1974年4月27日生まれ。北海道帯広市出身。

1994年「第21代クラリオンガール」グランプリでデビュー。以後、ドラマや映画、バラエティで幅広く活躍し、現在TBS「ひるおび!」火曜日レギュラー。2004年にアロマインストラクターの資格を取得。2005年に子宮頸がん、2009年に子宮体がんを経験。自分の病経験をもとに、ブログではがんやがん予防・後遺症に関する情報を積極的に発信している。2011年には婦人科系のがん患者の会『よつばの会』を発足。自身の経験をもとに、全国での講演活動などにも取り組んでいる。

◆オフィシャルブログ
http://ameblo.jp/harachiaki-we/
◆twitter
@seribukristal
原千晶 よつばの会
原千晶公式ブログの読者を中心に2011年に発足。子宮がん、卵巣がん、乳がんなど女性特有のがんを患った人が集まって体験談などを分かち合うとともに、啓蒙活動などにも取り組んでいる。
ホームページ
http://www.yotsuba-kai.com/

(Photo:富山淳 Writer:福井万里)

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